
ホンダのレースの歴史は、そのまま「世界の2輪モータースポーツの歴史」と言っても過言ではない。
本記事では、市販モデルの制約を一切受けない最高峰のレース「WGP⇒MotoGP」を舞台とする純粋なプロトタイプと、公道モデルの極限延長線である「市販車ベースレーサー(耐久/SBK)」という2つの異なる戦場に焦点を当てる。
戦後の荒野で産声を上げた黎明期から始まり、2ストローク勢を打倒するための多気筒化の狂気、楕円ピストンの異端、そして絶対覇権を築いた同爆(ビッグバン)エンジン。サーキットという極限の環境で生まれたパラダイムシフトが、いかにして私たちの乗る公道モデルへと還元(フィードバック)されてきたのか。その執念と進化の系譜を紐解くと共に、国内最高峰のプレミアムを誇るホンダ・レプリカ機の買取相場についても併せて解説していく。
| 時代区分 | WGP⇒MotoGP(純プロトタイプ) | 市販車ベース(SBK/耐久) | パラダイムシフトと技術の循環 |
|---|---|---|---|
| 【1950年代】黎明期 | ドリーム号(浅間火山レース) | - | 国内生き残り競争から世界進出への決意(鈴鹿建設) |
| 【1960年代】多気筒化 | RC181(500cc)/ RC166(250cc6気筒) | - | 2スト打倒のための超高回転化・DOHC多バルブ技術 |
| 【1970年代】無敵艦隊 | NR500(楕円ピストン) | RCB1000 / RS1000E | DOHC4バルブの大排気量化と圧倒的耐久性の確立 |
| 【1980年代】V型エンジン | NS500(V3)/ NSR500(V4) | RVF750(ファクトリー) | カムギアトレイン、プロアームの確立と市販化(RC30) |
| 【1990年代】絶対覇権 | NSR500(ビッグバン) | RVF/RC45 | 同爆エンジンによるトラクション制御の概念誕生 |
| 【2000年代】最適解 | RC211V(V5) | VTR1000SPW / CBR1000RRW | 4スト回帰。V5エンジンの衝撃とSBK気筒数戦争 |
| 【2010年代以降】電脳と空力 | RC213V(V4) | CBR1000RR-R | エアロダイナミクス革命、シームレスミッションの還元 |
※Eは耐久レース(Endurance)専用・主体に開発されたレーサーを示す
レギュレーションの枠内で極限の速さを追求する「ロードレース世界選手権(WGP⇒MotoGP)」。ここは採算度外視で最新技術が投入され、市販モデルの制約を一切受けない、まさに純粋なる「狂気の実験室」である。
戦後の日本には、100社を超える新興バイクメーカーが乱立していた。1947年に自転車用補助エンジン(A型)で参入を果たした「後発」のホンダにとって、自社の技術力を世に誇示し生き残るための唯一の手段がレースでの証明であった。
彼らの技術的優位性の核は、いち早く実用化した「4ストロークOHVエンジン」にあった。1951年に誕生した初の本格式4スト機「ドリームE型」は、当時の主流だった2ストローク機を圧倒するパワーと耐久性を誇っていた。ホンダはこのE型をベースに、日本初の本格的2輪モータースポーツである「富士登山レース」、続く1955年の「第1回浅間高原レース(未舗装公道)」に向けて、自社初のスポーツモデル、そして純粋なプロトタイプ・レーサーへとドリーム号を先鋭化させていく。過酷な火山灰ダートを舞台に、1955年の第3回富士登山レースでは250ccクラスで優勝を果たすも、125ccクラスでは新興ヤマハ(YA-1)に敗北。同年の第1回浅間高原レースでは、当時市販ラインナップになかった大排気量を補うべく「ドリームのエンジンを極限まで拡大した試作機」を投入し、350cc・500ccクラスこそ制したものの、主力である125cc・250ccクラスではマシントラブルによりヤマハやライラック等のライバルに苦杯を舐めるという、激しい死闘を繰り広げたのである。
※注記:これら黎明期(第0期)の参戦機は一般に「市販車ベースの改造機」と語られるが、最初のドリームD型が98ccであったことを踏まえれば、当時のホンダに存在しない350cc・500ccのエンジンを独自設計して載せたこれらのマシンは、実質的な「純プロトタイプ(ワークスマシン)」であったと言える。まさにこの国内でのプロトタイプ開発競争こそが、ホンダが世界(WGP)へと打って出る直系のルーツであるため、プロトタイプ編の起点【第0期】として位置づけている。
これらの悔しい敗戦と経験が、後に続くWGP用の専用設計プロトタイプ開発への強烈な原動力となる。「井の中の蛙ではいけない。国内での勝利は、世界一になるための通過点に過ぎない」。本田宗一郎は1954年に発布した伝説的な『マン島TTレース出場宣言』の公約通り、国内での熾烈な開発競争で磨き上げた技術を武器に、1959年、いよいよ世界最高峰の舞台「マン島TT」へと初参戦を果たす。当時のマン島TTは単なる独立した公道レースではなく、FIMロードレース世界選手権(WGP)における最も過酷で権威ある一戦としてカレンダーに組み込まれていた。日本勢初のWGP参戦として用意された歴史的マシンは、125ccの「RC142」であった。浅間までの市販車ベースとは完全に決別し、GPで勝つためだけにゼロから専用設計されたホンダ初の「純プロトタイプ(ファクトリーレーサー)」である。この時冠された「RC」という名称こそが、現在に至るまでホンダの「4ストローク・純レーシングマシン(ワークス機)」を意味する至高の称号の起源となった。当時の常識を覆す「1気筒あたり4バルブ」のDOHC並列2気筒エンジンという画期的な超高回転メカニズムを搭載し、谷口尚己が6位に入賞。見事、日本人・日本車として初の世界選手権ポイントを獲得し、メーカーチーム賞を受賞する歴史的快挙を成し遂げたのである。
しかし同時に、上位を独占した欧州勢との埋めがたい「平均速度(総合力)の差」も痛感することとなる。「世界で完全に勝つためには、国内に世界基準の本格的な舞台(テストコース)が必要だ」。この宗一郎の強い危機感と情熱が、1962年の「鈴鹿サーキット」建設という壮大な決断へと繋がり、ホンダ、そして日本のモータースポーツは本格的な世界(WGP)への扉を開くことになる。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| RC142(125cc) | 空冷DOHC並列2気筒。超高回転化を狙った画期的な4バルブヘッド。 1959年 マン島TT 125cc 6位(日本勢初の世界ポイント獲得・メーカー賞) |
完全プロトタイプ (以降のWGP多気筒マシンの原点) |
| ドリーム SAZ / 試作レーサー | OHV単気筒。350/500ccは当時の市販ラインナップにない完全な専用設計エンジン。 1955年 富士登山レース 250cc優勝 / 浅間高原レース 350/500cc優勝 |
ドリームE型等 (ドリームSA/SB型等の市販車性能向上) |

黎明期の国内ダートレース(浅間)から始まり、1959年のマン島TT初挑戦を経て、1966年の「全5クラス制覇」へと至るホンダの怒涛の進化を一望できるのが以下のマトリックスである。この年表から、ホンダが各排気量クラスにおいて「RC」ワークスマシンの世代を猛烈なスピードで重ねていったことが分かる。
【マニアック解説】RCワークスマシンの型式命名ルール
「RC」に続く3桁の数字は、左から「競技用(1または2)」「排気量クラス」「開発世代」を表している。
・排気量(十の位):1=50cc、4=125cc、6=250cc、7=350cc、8=500cc
・世代(一の位):そのクラスでの開発順
(例:RC166 = 250ccクラスの第6世代機 / RC181 = 500ccクラスの初代機)
| 年代・大会 | 50cc | 125cc | 250cc | 350cc | 500cc |
|---|---|---|---|---|---|
| 1955年 浅間高原 | - | - | - | 試作機 優勝 |
試作機 優勝 |
| 1959年 マン島TT | - | RC142 6位 |
- | - | - |
| 1961年 WGP | - | RC143 優勝 |
RC162 優勝 |
- | - |
| 1962年 WGP | RC110 | RC145 優勝 |
RC163 優勝 |
RC172 優勝 |
- |
| 1966年 WGP(全制覇) | RC116 優勝 |
RC149 優勝 |
RC166 優勝 |
RC173 優勝 |
RC181 優勝 |
ホンダがWGPに足を踏み入れた1950年代末、軽量クラス(125cc/250cc)はカルロ・ウビアリを擁するMVアグスタやFBモンディアルといったイタリア勢(洗練されたDOHC単気筒・2気筒マシン)が長年GPを牛耳り、絶対的な覇権を握っていた。1959年の初陣で世界の壁の厚さとイタリア勢との「平均速度の差」を痛感したホンダは、彼らを打破するため、猛烈なスピードでマシンの多気筒化と高回転化を推し進める。
そしてわずか2年後の1961年、欧州勢の度肝を抜くDOHC直列4気筒(250cc)という極めて高度なメカニズムを積んだ「RC162」を投入。この超高回転の多気筒技術は、後に世界の公道モデルの覇権を握る歴史的名機「CB750FOUR」の誕生へと直結する、まさにホンダ直4伝説の原点であった。西ドイツGPにおいて高橋国光がRC162で日本人として初の世界GP優勝を飾る歴史的快挙を成し遂げると、そのままの勢いでマイク・ヘイルウッドが250ccクラスの世界チャンピオンを獲得。さらに125ccクラスでも「RC143」を駆るトム・フィリスが初タイトルをもたらし、欧州メーカーの長年の牙城を完全に打ち崩した。これこそが、本田宗一郎の「マン島TTレース出場宣言」の悲願であった世界初制覇の瞬間である。
しかし、王座を奪ったのも束の間、WGPにはさらなるパラダイムシフトが待ち受けていた。それが「2ストロークエンジンの台頭」である。東ドイツのMZ(チャンバー機構の先駆者)に端を発し、単純な構造で爆発1回あたりのパワーが大きい(4ストの2倍の燃焼回数)日本の2ストローク勢(ヤマハRD56等やスズキRT67等)が急速に進化し、ホンダから覇権を奪い返しに来たのだ。
ホンダは、自らのアイデンティティである「4ストローク」でこれに勝つため、狂気とも言える「さらなる超高回転・多気筒化」の道を選択する。1気筒あたりの排気量を極小化し、ピストンスピードの物理的限界を引き上げる。125ccクラスでは5気筒のRC149(22,000rpm)、250ccクラスでは6気筒のRC166(18,000rpm)という、スイス時計のように精密なギア駆動カム(カムギアトレイン)を備えた怪物を生み出した。1気筒あたりわずか25cc(お猪口サイズ)のピストンが毎分2万回以上も激しく上下動し、そこから奏でられるエキゾーストノートは「官能的な咆哮(ホンダ・ミュージック)」として世界中を驚愕させた。
さらに最高峰500ccクラスには、絶対王者MVアグスタのジャコモ・アゴスチーニを打倒するため、DOHC直列4気筒「RC181」を投入。圧倒的なエンジン出力に当時のフレーム技術が完全に負けており、車体が暴れ狂う「じゃじゃ馬」に苦しめられたものの、この1966年、ホンダはRC181による500ccメーカータイトル獲得を含む、ソロ全5クラス(50cc、125cc、250cc、350cc、500cc)のメーカー選手権を完全制覇するという、モータースポーツ史に燦然と輝く前人未到の金字塔を打ち立てたのである。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| RC162(250cc) | 空冷DOHC直列4気筒。高橋国光が日本人初優勝を飾った記念碑的マシン。 1961年 250ccクラス 初タイトル獲得(メーカー/ライダー) |
完全プロトタイプ (多気筒化路線の確立) |
| RC181(500cc) | 空冷DOHC直列4気筒。85ps以上の猛烈なパワーを発揮する最高峰マシン。 1966年 500ccメーカータイトル獲得(アゴスチーニとの死闘) |
完全プロトタイプ (CB750FOUR等の大排気量4気筒化への布石) |
| RC166(250cc) 並列6気筒 |
空冷並列6気筒 DOHC4バルブ。最高出力60ps以上/18,000rpm。1気筒わずか41cc。 1966年 250ccクラス全戦全勝(マイク・ヘイルウッド) |
完全プロトタイプ (CBX1000等への多気筒ロマン継承) |
| RC149(125cc) 直列5気筒 |
空冷DOHC直列5気筒。1気筒あたりわずか25ccのピストンによる超精密エンジン。 1966年 125ccクラス メーカーチャンピオン獲得 |
完全プロトタイプ (小排気量・多気筒化技術の確立) |

1960年代に小?中排気量クラスを総なめにしたホンダにとって、もはやアンダークラス(125ccや250cc等)での勝利は「当たり前(常態化)」のものとなっていた。それに伴い、国内のファンやメーカーの関心も自ずと「最高峰の500ccクラスで頂点を極められるか」という一点へと集中していく。そのため、第2期以降のホンダの歴史は、事実上この「最高峰クラス(500cc?MotoGP)における絶対覇権の追求」に焦点を当てたものとなっていく。
1966年の全クラス制覇で4ストロークの優位性を完全に証明したホンダは、多気筒化を禁止するFIMの規則変更と、四輪事業(F1や市販乗用車)への開発資源集中を理由に、1967年末をもってWGPワークス活動を休止する。その後、約10年の沈黙を破り1979年にWGPへ復帰する。しかし、当時の500ccクラスはケニー・ロバーツを擁するヤマハ(YZR500)や、7年連続メーカータイトル(1976?82年)という絶対王朝を築き上げていたスズキ(RG500 / Γ)が駆る、超軽量かつハイパワーな「2ストロークマシンの完全な独壇場」となっていた。
しかしホンダは「市販車に繋がる4ストロークで勝つ」という企業理念に固執し、モータースポーツ史に残る異端児「NR500」を投入する。レギュレーションで制限された4気筒という枠の中で、2ストに勝つためには「2万回転」を実現する必要があった。そこでホンダは「長円形(オーバル)ピストンに1気筒あたり8バルブ・2プラグ・2コンロッド」という前代未聞のV型4気筒エンジン(実質的なV型8気筒)を開発。しかし、複雑怪奇な熱膨張を伴うシールの問題や、強烈なエンジンブレーキ、そして重量増という物理の壁に阻まれ、遂に1勝も挙げることはできなかった。
WGPでは未勝利に終わったものの、この常軌を逸したオーバルピストン技術は後に公道市販モデル「NR(通称NR750)」へとフィードバックされた。2020年代現在において、この「唯一無二の狂気のメカニズム」を宿したNRは世界中のコレクターの垂涎の的となっており、国内メーカー製造の市販車として最も高く売れるプレミアム機の頂点(数千万円の相場)に君臨し続けている。
ここでホンダは大きな決断を下す。自らの魂である「RC=4ストローク」の歴史を一旦封印し、勝つために2ストロークエンジンの開発へと「転教」するという、ホンダのモータースポーツ史における最大のパラダイムシフトを起こしたのだ。それが1982年に投入された「水冷」2ストロークV型3気筒の「NS500」である。
ライバルのヤマハや絶対王者スズキが最高出力を追求して4気筒(V4やスクエア4)を熟成させる中、ホンダはあえて1気筒少ないV3構成を選択。最高出力では劣るものの、圧倒的な軽量化・スリム化・マス集中化を実現した。この「操りやすさ」を武器とする鋭いハンドリングマシンは、天才フレディ・スペンサーの変幻自在なライディングと見事にシンクロし、1983年にヤマハのケニー・ロバーツとの歴史的死闘を制覇。同時にスズキの連覇をもストップさせ、1966年にメーカータイトルこそ獲っていたものの、念願であったホンダ初の「500ccクラス ライダーズ・チャンピオン」をついにもたらした。
V3で頂点を極めたものの、ホンダの探求心は止まらなかった。「他社と同じV4で、他社を完全にねじ伏せる」ため、翌1984年に2ストロークV型4気筒の初代「NSR500(NV0A)」を投入する。驚くべきことにこのマシンは、エンジンの下に燃料タンクを配置し、エンジンの上にチャンバー(排気管)を這わせるという、常軌を逸した「アップサイドダウン(上下逆転)レイアウト」を採用していた。これは低重心化を極限まで追求した結果の異形であったが、ライダーがチャンバーの熱で火傷を負うなどの問題で1年限りで姿を消す。しかしこの失敗を糧にオーソドックスなレイアウトへと進化したNSR500は、1985年のスペンサー二冠、1989年のエディ・ローソンによる王座奪還と、80年代後半のWGP黄金期においてヤマハYZR500と熾烈な開発競争を繰り広げていくこととなる。
本田宗一郎の「市販車に繋がる4ストローク」という強烈な理念に反し、勝つために苦渋の決断として甘受せざるを得なかった2ストローク(プロトタイプ)へのパラダイムシフト。しかし、この転換は公道市販モデルにおいてホンダに「思わぬ恩恵」をもたらすこととなる。
当時の日本国内で熱狂的な盛り上がりを見せていた「鈴鹿4耐(鈴鹿4時間耐久ロードレース)」を契機に、若者たちの間で空前の「レーサーレプリカブーム」が巻き起こった。その主役として市場を席巻し続けたのが、WGPマシンの直系技術をフィードバックされた公道市販モデル「NSR250R」である。レースでの絶対的な強さとリンクしたNSRはブランドの象徴となり、とりわけその最終型であるSP/SEグレード(MC28等)は、国内の250ccモデルとして現在に至るまで「最も高く売れる機種(数百万円のプレミア相場)」として長らく君臨し続けている。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| NR500 楕円ピストン 8バルブ |
水冷オーバルピストンV型4気筒 32バルブ。超ショートストロークでの超高回転化。 WGP未勝利(しかし技術的遺産は甚大) |
完全プロトタイプ (NR(国内最高額のプレミアム機) / VFシリーズの源流) |
| NS500 2st V型3気筒 |
水冷2ストロークV型3気筒。徹底的な軽量化とV3レイアウトによるマス集中化。最高出力120ps以上。 1983年 WGP500ccクラス チャンピオン |
完全プロトタイプ (MVX250F / NS400R) |
| NSR500(80年代型) 2st |
水冷2ストロークV型4気筒(1軸クランク)。初期NV0A型は上下逆転レイアウトを採用。最高出力140ps以上。 1985年・1989年 500ccクラス チャンピオン |
完全プロトタイプ (NSR250Rシリーズへのフィードバック) |

1990年代に入ると、各メーカーの2ストロークV型4気筒エンジンは160psを優に超えるモンスターへと進化していた。しかし、等間隔で爆発を繰り返す従来の「等爆(スクリーマー)エンジン」では、そのピーキーで暴力的なパワーの立ち上がりに当時のタイヤのグリップ力が全く追いついていなかった。
コーナリング中に少しでもスロットルを粗雑に開ければ、リアタイヤは一瞬で空転(スピン)し、次の瞬間に突然グリップを回復してライダーを上空へと高く放り投げる「ハイサイド・クラッシュ」が頻発。ライダーたちは常に命の危険と隣り合わせでこの「殺人マシン」をねじ伏せる必要があり、もはや人間のコントロール領域を超えつつあった。
この絶望的な物理限界を「内燃機関のパラダイムシフト」で打破したのがホンダである。1992年、彼らはあえて複数のシリンダーを極めて近いタイミングで点火させる「同爆(ビッグバン・不等間隔爆発)」エンジンを開発した。
一見すると一度に巨大なパワーが出て滑りやすそうに思えるが、実は「大きな爆発の後、次の爆発が来るまでに長い休み時間(休止角)ができる」のが最大のミソであった。この休止角の間に、スライドで潰れたタイヤが真円に近い形へと回復し、グリップを取り戻すのだ。タイヤが悲鳴を上げる前に休ませるという、この逆転の発想によるトラクション革命が、2ストロークマシンの歴史を根底から覆すこととなる。
1990年代前半、WGPはホンダ(NSR500)、ヤマハ(YZR500)、スズキ(RGV-Γ500)による三つ巴の死闘が極限に達していた。とりわけ「打倒NSR」を掲げるウェイン・レイニー率いるヤマハYZR500との宿命のライバル関係は、WGPの歴史上最もファンを熱狂させた。
その激しい抗争の中で、ビッグバン・エンジンの恩恵を最も受けたのが絶対王者ミック・ドゥーハンである。彼は右足の重傷によりリアブレーキを親指で操作(サムブレーキ)せざるを得ないハンデを背負っていたが、ビッグバンの従順な特性とサムブレーキによる絶妙な姿勢制御を武器にライバルたちを次々と粉砕。1994年から1998年まで「5年連続ワールドチャンピオン」という、他メーカーを絶望させる絶対覇権を築き上げた。
なお、1990年代後半にはタイヤの性能が飛躍的に向上したため、ホンダは再び絶対的な最高出力を叩き出せる等爆(スクリーマー)エンジンへと回帰し、アレックス・クリビーレやバレンティーノ・ロッシと共に2ストローク時代の終焉まで最強の座を守り抜いた。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| NSR500(1990年代?ビッグバン型) 2st |
水冷2ストロークV型4気筒。点火間隔を変更し休止角を設けたビッグバン仕様。最高出力180?200ps超。 1994?1998年 WGP500ccクラス 5連覇(M.ドゥーハン) |
完全プロトタイプ (NSR250R(MC28等でのPGM-IV高度制御化)) |

2002年、環境問題への配慮からWGPの最高峰クラスは名称を「MotoGP」と改め、最大990ccの4ストロークエンジンの参戦が許可された(初年度は2ストローク500ccとの混走)。1960年代の黄金期を支えた4ストローク・レーサーの証である「RC(レーシング・サイクル)」の冠が、数十年の時を経てついに最高峰クラスに復活したのである。
この新たなレギュレーションを読み解く中で、ホンダはひとつの「抜け穴」を発見する。当時の規定では気筒数に応じて最低車体重量が定められていたが、「4気筒と5気筒は同じ145kg」に設定されていたのだ。ヤマハが直列4気筒(YZR-M1)で参戦したほか、ドゥカティは伝統のデスモドロミック機構を用いたV型4気筒(デスモセディチ)、スズキはV型4気筒(GSV-R)、カワサキは直列4気筒(ZX-RR)、さらにアプリリアはF1技術を応用した直列3気筒(RSキューブ)を投入するなど、各社が独自のエンジンレイアウトで激突する異種格闘技戦の様相を呈した。
ライバルメーカーが市販車へのフィードバックなどを考慮して4気筒以下を採用する中、ホンダは「同じ重量制限ならば、気筒数を増やして1気筒あたりの排気量を小さくした方が、より高回転まで回りハイパワーを絞り出せる」という純粋な勝負論理を貫き、「5気筒」という規格外の選択を下す。
しかし、直列5気筒ではエンジン幅が広くなりすぎて空気抵抗やバンク角に悪影響を及ぼす。そこでホンダが導き出した「究極の最適解」が、前3気筒・後2気筒からなる「V型5気筒(RC211V)」であった。
このV5レイアウトは、車体幅を従来のV4エンジンと同等にスリムに抑えられるだけでなく、エンジンの一次振動を理論上ゼロに打ち消すことができるため、重いバランサーシャフトを省略できるという絶大なメリットをもたらした。まさに、ホンダの多気筒化技術とパッケージング思想が奇跡的な高次元で融合した「勝つための内燃機関」であった。
このV5エンジンを搭載したRC211Vは、デビューイヤーである2002年から他社に絶望を与えるレベルのパフォーマンスを発揮する。天才バレンティーノ・ロッシのライディングにより、開幕戦の鈴鹿から怒涛の連勝を重ね、全16戦中14勝(ロッシ11勝)という圧倒的な成績で初代MotoGP王者の称号を奪い取った。
ホンダのRC211Vはロッシと共に連覇を果たしたが、2004年にロッシがヤマハへ電撃移籍するとヤマハ(YZR-M1)が覇権を奪還。2006年にニッキー・ヘイデンが意地の王座奪還を果たすも、2007年からは安全面への配慮から排気量上限が800ccへと縮小された。
これに合わせてホンダはV型4気筒の「RC212V」を投入。しかし、800cc時代はドゥカティ(ケーシー・ストーナー)やヤマハ(ロッシ、ホルヘ・ロレンソ)が圧倒的な強さを誇り、ホンダは苦戦を強いられた。RC212Vが悲願のタイトルを奪還するのは、2011年(ストーナー加入時)まで待つこととなる。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| RC211V V型5気筒 |
水冷V型5気筒(前3/後2) 990cc。一次振動ゼロの究極スリムパッケージ。最高出力210?240ps以上。 2002?2003年 V.ロッシが初代から2連覇。06年にN.ヘイデン戴冠。 |
完全プロトタイプ (CBR1000RR(ユニットプロリンクサス等)) |
| RC212V | 水冷V型4気筒 800cc。排気量縮小に伴うV4化。800ccながら最高出力210ps以上を誇る。 2011年 C.ストーナーによる王座奪還 |
完全プロトタイプ (-) |

2012年、排気量上限が再び1000ccへと拡大された。しかし、かつてのRC211V(990cc)時代とは異なり「最大気筒数は4気筒まで」「最大ボア径は81mm」という厳格なレギュレーションが敷かれたため、ホンダは得意のV5エンジンを物理的に封じられることとなった。そこで、規定内で最大の出力を得られる「V型4気筒」として開発されたのが、現在の主役「RC213V」である。
250psを優に超えるモンスターパワーを路面に伝えるため、この時代のMotoGPは「電子制御(ECU)の高度化」が究極のテーマとなった。ホンダは独自のソフトウェア制御を極限まで進化させ、コーナーごとにバンク角やタイヤ摩耗度を演算してトラクションコントロールやアンチウィリー、エンジンブレーキを自動補正するという魔法を手に入れた。さらに、変速時のショックと車体のピッチングを完全に消し去る「シームレス・トランスミッション(物理的なメカニズムと高度な電子制御の融合)」を実戦投入し、タイヤマネジメントにおける絶対的な優位性を確立したのである。
しかし2016年、ホンダやヤマハの巨大なアドバンテージを危惧したドルナ(運営)は、開発コスト削減と戦力均衡化を理由に「共通ECU(マニエッティ・マレリ製)」の導入を義務付ける。この強烈なレギュレーション変更により、ホンダは得意としていた「超高度な独自の電子制御による車体姿勢のコントロール(ウィリー抑制など)」を突如として奪われてしまった。
「電子制御でフロントタイヤを押さえつけられないなら、物理的な力で押さえつけるしかない」。この因果律によってMotoGPに巻き起こったのが「エアロダイナミクス(空力)革命」である。ドゥカティ(デスモセディチGP)が先鞭をつけたこの空力戦争により、各車はカウル側面に「ウィングレット(空力翼)」を装着。サスペンションやフレームといった伝統的な車体構成ではなく、「空気」を物理的なパーツとして車体姿勢の制御に組み込むというパラダイムシフトが起きた。これにマルク・マルケスの超人的なライディング(肘スリや60度を超えるバンク角、転倒寸前からの神業リカバリー)が融合することで、RC213Vは電子制御の制限と空力戦争の波を乗りこなし、2013年から2019年までに「6度のワールドチャンピオン」という新たな絶対王朝を築き上げた。
2015年、ホンダは世界中を驚愕させる一台の公道市販モデルを発表する。「RC213V-S」である。これは「MotoGPマシンの技術をフィードバックしたレプリカ」ではなく、「MotoGPマシンそのものに保安部品を付けただけ」という狂気の代物であった。販売価格は驚愕の「2,190万円」。国内での中古流通は皆無に等しいが、海外の著名なオークションでは約3000万?4000万円超という新車価格を遥かに上回る凄まじいプレミア価格で落札されており、バイクの歴史における市場価値(相場)の概念を破壊し、今なお頂点として語り継がれている。
しかし、栄華を極めたRC213Vも、2020年のマルケスの大怪我による長期離脱を境に歯車が狂い始める。その間にドゥカティやアプリリア、KTMといった欧州メーカーが、エアロダイナミクスやライドハイトデバイス(車高調整機構)の開発競争で日本勢を完全に凌駕。マシンのメカニカルグリップよりも「ダウンフォースと電子制御」が勝敗を分ける現代MotoGPにおいて、ホンダは歴史的な大低迷期に突入し、かつての絶対王者は現在、泥沼の戦いの中で次なるパラダイムシフトを模索している。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| RC213V | 水冷V型4気筒 1000cc。シームレスミッションとウィングレット(空力)装備。最高出力240?250ps以上(推定300ps近傍)。 2013?2019年 M.マルケスによる6度の戴冠 |
完全プロトタイプ (RC213V-S(MotoGPマシンそのものの市販化)) |
純粋なプロトタイプとは対極にあるのが、耐久レース(ボルドール、鈴鹿8耐)やスーパーバイク世界選手権(SBK)などの「市販車ベース」のレースである。「売っているバイクが最も速い」ことを証明するこの戦場では、レースで勝つために公道モデルを極限までチューニングする「ホモロゲーション」の狂乱が巻き起こった。

1960年代のWGPで欧州勢を粉砕した「RCレーサー群」の4ストローク多気筒技術。その血統たる並列4気筒エンジンを世界で初めて公道向けに量産化し、世界に衝撃を与えた名車が1969年誕生の「CB750FOUR」である。
当時、デイトナ200やヨーロッパ耐久レースを牛耳っていたのは、トライアンフなどの英国製ツイン/トリプルや、ハーレーなどの大排気量OHV勢であった。ホンダのワークス部隊(のちのRSC・現HRC)は、これら旧時代の巨人たちを討ち果たすべく、発売直後の1969年に伝統の「ボルドール24時間」へ参戦しいきなり総合優勝を飾る。翌1970年の「デイトナ200マイル」でもファクトリーレーサー「CR750」が優勝。かつてWGPで成し遂げた「多気筒化によるジャイアントキリング」を市販車の舞台で鮮やかに再現し、世界の勢力図を直列4気筒一色へと塗り替えた。
しかし1970年代中盤、デイトナ等のスプリント(F750)ではヤマハの2ストレーサー「TZ750」が圧倒的なパワーで台頭し、4ストのCR750は姿を消す。一方、燃費が重視され「1000ccの4ストローク」が許容された「ヨーロッパ耐久選手権(EWC)」では、カワサキの「Z1(900cc)」が参戦し猛威を振るっていた。
Z1から耐久王座を奪還すべく、ホンダが1976年に投入した第2世代の耐久レーサーが「RCB1000」である。当時のEWCは「クランクケース等さえ市販車であれば、あとは底なしの改造が許容される」というプロトタイプ同然の時代。ホンダはCBのクランクケースを限界までボアアップ(約1000cc化)し、DOHC4バルブ化と専用レーシングフレームを施した。
その圧倒的な速さとタフネスから『不沈艦』と呼ばれたRCB1000は、1976年からZ1勢を粉砕してヨーロッパ耐久選手権を3連覇。この無敵の耐久レーサーの技術とオーラは、のちに究極の公道向けホモロゲーションモデル「CB1100R」へと結実することになる。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| CR750 (CB750レーサー) | 空冷並列4気筒(750cc/SOHC)。初期の耐久・スプリント用レーサー。 1969年 ボルドール24時間優勝 / 1970年 デイトナ200優勝 |
CB750FOUR |
| (E) RCB1000 | 空冷並列4気筒(約1000cc化)。DOHC4バルブ化。耐久レース用専用設計フレーム。 1976?1978年 ヨーロッパ耐久選手権3連覇 |
CB750FOUR 等 (CB-Fシリーズへの技術的信頼 / CB1100Rの誕生) |

1980年代に入り、レースシーンは大きな転換点を迎える。当時の主要な市販車ベースレースは、スプリント系ではアメリカの「AMAスーパーバイク」や「Formula TT(TT-F1等)」、耐久系では世界選手権へと昇格を果たした「FIM EWC」がメジャーであった。
中でもEWCを主戦場としていたホンダは、1984年からEWCのレギュレーションがTT-F1と統合され、4ストロークの排気量上限が1000ccから750ccへと引き下げられたことで、出力向上の限界を迎えていた空冷直列4気筒(RCB/RS1000系)を捨て、ついに「水冷化」と「V型4気筒(V4)」へと大きく舵を切る。
当時のTT-F1は「エンジンの基本骨格(クランクケース)さえ市販車であれば、フレームや足回りは専用設計(プロトタイプ)で良い」という極めて自由なルール。ホンダは水冷V4のVF750Fをベースとしつつ、中身は数億円の開発費が投じられた純ワークスマシン「RVF750」を開発した。チタンコンロッドやプロアームを備えたRVFは、真夏の祭典「鈴鹿8耐」等で無敵の強さを誇る。時を同じくしてWGPを席巻していた2ストロークV4「NSR500」の快進撃とも完全に同期し、オンロードにおけるホンダの「V4神話」はここで確固たるものとなったのである。
耐久のトップエンドが750cc化された一方で、日本のモータースポーツ熱を根底から支え、最も狂乱を極めたのが「TT-F3」クラスと「鈴鹿4耐(4時間耐久レース)」である。中型免許制度の制約により、国内市場では「400cc」が一般ライダーの実質的なトップエンドとなっていた。当時の絶対的なステータスであった『空冷4気筒の400cc』を、格下排気量であるはずの『水冷2ストローク250cc』がサーキットや峠で軽々と抜き去るという下剋上(ジャイアントキリング)の光景が、若者たちの間で空前のレーサーレプリカ熱狂を生み出していた。
鈴鹿4耐は当初こそアマチュア(プライベーター)の祭典であったが、各メーカーは「4耐で勝てば月曜日にバイクが飛ぶように売れる」という至上命題のもと、水面下でワークス並みの開発体制を敷き、市販車の段階で過激な技術を投下した。レーサーとレプリカの境界線が最も密接だったこの時代、ホンダはTT-F3専用の純ワークスマシン「RVF400(開発コードNW0A)」や、WGP250専用機「RS250RW」の技術を惜しみなくフィードバック。プロアームを備えた「VFR400R(NC30)」や、最強の2スト市販車「NSR250R」を市場に投入した。さらにHRC(ホンダ・レーシング)から、レース専用のキットパーツを組み込んだ市販レーサー「NSR250RK」や「NC30のTT-F3仕様機」が供給され、これらが4耐で最強の武器として猛威を振るったのである。
RVFが耐久レースを席巻していた1987年、ホンダは突如としてフランスの「ル・マン24時間耐久レース(特別にプロトタイプ枠が許容されていた)」に、1台の異形のファクトリーマシンを投入する。かつてWGP(NR500)で敗れ去った「オーバル(楕円)ピストン」の夢を、耐久仕様のV型4気筒750ccで復活させた「NR750」レーサーである。
気筒あたり8バルブという超絶メカニズムを搭載したこのマシンは、予選で圧倒的な速さを見せつけ2位を獲得。決勝でもトップを快走するが、わずか3時間後にエンジントラブルにより無念のリタイア(散華)を遂げる。しかし、この狂気とも言える「楕円ピストンへの執念」は決して死なず、5年後の1992年、1台520万円という国内バイク史上最高額の究極の公道市販モデル「NR」として結実することとなる。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| NR750(レーサー) 楕円ピストン 8バルブ |
水冷V型4気筒(楕円ピストン・32バルブ)。プロトタイプ枠での特別参戦。 1987年 ル・マン24時間耐久 予選2位・決勝リタイア |
完全プロトタイプ (超高級市販車「NR(1992年)」への結実) |
| RVF750 | 水冷V型4気筒(750cc)。カムギアトレイン、プロアーム搭載。TT-F1およびEWC専用設計プロトタイプフレーム。 鈴鹿8耐 優勝多数 / FIM EWCタイトル獲得 |
VF750F 等 (VFR750R (RC30) 等のホモロゲーションモデルの源流) |
| VFR400R / NSR250R(および市販レーサーRK等) 2st (NSR) |
ワークス機(NW0AやRS250RW)の技術を直系で受け継ぐ。HRCキットを組み込んだF3仕様機が猛威を振るった。 TT-F3 / 鈴鹿4耐において最強の武器として君臨 |
(市販車そのもの) |

1988年、これまで世界各地で乱立していた4ストローク市販車ベースのスプリントレース(AMAやTT-F1など)の統一形態として、「スーパーバイク世界選手権(SBK)」が開幕する。この新たな世界最高峰カテゴリの初代王座を獲るべく、各メーカーは照準を合わせたマシン構成へと一斉にシフトした。ホンダのVFR750R(RC30)をはじめ、ヤマハは「FZR750R(OW01)」、スズキは「GSX-R750R」、そしてドゥカティは水冷4バルブの「851」を投入するなど、世界の二輪メーカーが採算度外視のホモロゲーションモデルを惜しげもなく市場に放つという、異常な熱量の開発競争が勃発したのである。
SBKでは「フレーム改造不可」という厳格な市販車レギュレーションが敷かれたため、ホンダは「市販車を後から改造できないのなら、最初からレース仕様のプロトタイプを公道モデルとして市販してしまえばいい」という逆転の発想に出る。1974年のドゥカティ750SSや1982年のカワサキZ1000S1など、規定の最低販売台数だけをクリアする目的で造られた超限定モデルは過去にも存在した。しかしSBKでは「公然たる公道モデルに対して参戦条件を付与する」という建前が強化されたため、この時代から「チタンコンロッド等の超高額パーツを最初から組み込んだワークス直系のマシンを、量産ラインで大規模に生産・一般販売する」という、現代的な意味でのホモロゲーションモデルという概念が確立したのである。
その筆頭が、耐久無敵のワークスマシン「RVF750(NW1A)」をそのまま公道モデル化した「VFR750R(RC30)」である。RC30はフレッド・マーケルのライディングによりSBKの初年度(1988年)と翌年(1989年)の初代2連覇チャンピオンに輝く。
しかしその後、排気量で優遇されたドゥカティ(851/888/916)や、カワサキ(ZXR750)といったライバル勢の激しい追い上げにより、RC30は徐々に戦闘力不足に陥る。この王座奪還のため、さらなる技術を注ぎ込んで誕生した後継機が「RVF/RC45」であり、1997年にジョン・コシンスキーが見事にSBK王座を奪還した。
また特筆すべきは、これらのマシンがスプリント(SBK)だけでなく、耐久レース(FIM EWCや鈴鹿8耐)においても絶対的な覇権を握り続けたことである。RC30やRC45をベースとしたワークスマシン「RVF750」は、90年代の鈴鹿8耐で幾度となく勝利(ワイン・ガードナーやマイケル・ドゥーハンらの力走)を重ね、「耐久のホンダ」というアイデンティティを不動のものとした。これら「買えばワークスに勝てる」性能を持った名機は、現在も数百万?1千万円超で取引される伝説となっている。
ここで「RC」という名称の系譜に触れておきたい。1960年代の「RC166」等におけるRCとは、ホンダの「純然たる空冷ワークス・プロトタイプ」を意味するレーサーの正式なモデル名(呼称)であった。一方で、1980年代の純レーサー(RVF750等)には「NW」という極秘の社内開発コードが与えられていた。
ではなぜ、市販ホモロゲーションモデルであるVFR750Rが「RC30」と呼ばれたのか。実は1979年に制定された日本の運輸省(現・国土交通省)の車両型式規則において、「R」が750ccクラスを、「C」がオンロードモデルを意味するように定められたからである。つまりRC30とは「単なる750cc市販車の法規上の型式」に過ぎなかった。しかしホンダは、この「お役所仕事の記号」がかつての「伝説のレーサーの記号」と完全に合致した奇跡を見逃さなかった。ホンダはこの型式を誇りとともに前面に押し出し、水冷V4ホモロゲーションモデルを「新時代のRC」として世界へ羽ばたかせたのである。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| VFR750R(RC30) / RVF(RC45) | チタンコンロッドやマグネシウム合金等を標準装備した「現代的ホモロゲーションモデル」の元祖。 1988・1989年(RC30)、1997年(RC45)SBKチャンピオン / 鈴鹿8耐 幾度も優勝 |
RVF750(NW1A)等のワークスレーサー (レースに勝つための専用生産) |

1990年代後半、ホンダはRC45(V4・750cc)で懸命に戦い続けたが、SBKのレギュレーションは「2気筒は1000ccまで、4気筒は750ccまで」という、ドゥカティ(916/996系)に圧倒的に有利なものであった。250ccもの排気量差がもたらす物理的なトルク差は限界を超えており、ホンダはついに長年のアイデンティティであった「V4」の封印を決断する。
2000年、ホンダは「ドゥカティを同じ土俵(Vツイン)で徹底的に叩き潰す」というただ一つの目的のためだけに、異端とも言える完全新設計の水冷V型2気筒ホモロゲーションモデル「VTR1000SP1 / SP2(RC51)」を市場に放った。カムギアトレイン等のHRC直系の技術を注ぎ込まれたワークスマシン「VTR1000SPW」は、コーリン・エドワーズの手により2000年と2002年に見事SBKタイトルを獲得。「ホンダは本気になればVツインでも世界一を獲れる」という強烈な意地を歴史に刻み込んだ。
VTR1000SPWによるタイトル奪還によって面目を保ったホンダであったが、その後SBKのレギュレーションが改定され「4気筒も1000ccまで参戦可能」となると、直ちにVツインの熟成を止め、方向性を180度転換する。
2004年、当時のMotoGPで無敵を誇っていた「RC211V(V型5気筒)」の技術(センターアップ排気やUnit Pro-Linkサス等のマス集中化技術)を、直列4気筒エンジンに落とし込んだ「CBR1000RR(SC57)」を投入。ルールが変わるたびに「V4 → Vツイン → 直4」と気筒数すらコロコロ変えてでも「絶対に勝つ」というホンダの狂気的な執念と、プロトタイプ(MotoGP)からの技術のダイレクトな還元が、この時代の市販車市場を熱狂させたのである。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| VTR1000SPW | 「打倒ドゥカティ」のためだけに作られた異端のHRC製水冷Vツイン。 2000・2002年 SBKチャンピオン(エドワーズ) / 鈴鹿8耐優勝多数 |
VTR1000SP1/SP2 (RC51) (Vツインでのワークス技術還元) |
| CBR1000RRW | ルール変更に伴い直列4気筒へ回帰。RC211V直系のユニットプロリンク等のマス集中化技術。 2007年 SBKチャンピオン(トーズランド)等 / 鈴鹿8耐優勝多数 |
CBR1000RR (MotoGP技術の市販直4への落とし込み) |

2010年代に入ると、SBK(スーパーバイク世界選手権)の勢力図は大きく変化していた。WGP/MotoGPや耐久レース(鈴鹿8耐)では無敵の覇権を誇ったホンダだが、実はスプリント市販車レースの最高峰である「SBK」においては、1997年のRC45を最後に四半世紀近くも「メーカータイトル」から遠ざかっていた。VTR1000SPW(2000・02年)での王座獲得や、サテライトチームのCBR1000RR(2007年)によるライダーズタイトル奪還こそあったものの、「ホンダ・ワークス(HRC)としての覇権」という意味では2002年のVTR1000SPWが事実上の最後となっており、ドゥカティやカワサキといった「SBK特化型」のライバルたちを相手に、常に苦戦を強いられてきたのが実態なのだ。
とりわけ2010年代は、カワサキが「ZX-10R」とジョナサン・レイの絶対的なコンビで6連覇という前人未到の王朝を築き上げ、ドゥカティはMotoGPマシン直系のV4エンジンを積んだ「パニガーレV4R」という超高価格・超高回転型の生粋のホモロゲーションマシンを投入し、ホンダを大いに突き放した。
一方、この時期のホンダの主力であったCBR1000RR(SC59 / SC77型)は、公道での扱いやすさを最優先する「トータルコントロール」というライダー中心の設計思想を頑なに守り続けていた。しかし、ベースとなる市販車の素性がレースの勝敗を直結する現代の過激なレギュレーションにおいて、この「公道における優しさ」はサーキットでの致命的な足枷となってしまう。SBKでの戦闘力を失っただけでなく、ホンダの絶対的聖域であった「鈴鹿8耐」においてすら、ヤマハ(YZF-R1による2015?2018年の4連覇)やカワサキ(2019年優勝)に屈するという、屈辱的な敗北を喫することとなった。
「もはや公道で扱いやすいバイクでは、世界のレースでは絶対に勝てない」。この冷酷な現実を前に、ホンダは長年守り続けてきた市販車哲学を根底から覆す決断を下す。2020年、サーキットでの絶対的な速さのみを追求した生粋のトラックウェポン、「CBR1000RR-R FIREBLADE」を市場に放ったのである。
エンジンレイアウトこそ直列4気筒を維持したものの、その中身はMotoGPマシンである「RC213V」と全く同じ「ボア径81mm(規定上限)」という超ショートストローク設計を市販車にそのまま適用。チタンコンロッド等の採用により、量産車ながら218psという常軌を逸した最高出力を叩き出した。
なお、一般的に公道で極上の乗り味を提供するオーリンズ製「電子制御サスペンション」を装備した上位グレードの「SP」が最高峰と思われがちだが、実はコンベンショナルな機械式サスペンションを装備した「STD(スタンダード)モデル」こそがレース向けのホモロゲーションベースである。SBKなどのレース規定ではアクティブな電子制御サスペンションの使用が禁止されているため、レーシングチームがベース機として必要とするのはSTDモデルの方なのだ。
さらに特筆すべきは、プロトタイプ(MotoGP)の世界で猛威を振るっていた「エアロダイナミクス技術」が、初めてホンダの市販モデルへ本格的に還元されたことである。カウルの側面には、強烈な加速時にフロントタイヤを路面に押し付ける巨大な「ウィングレット(空力翼)」が標準装備された。電子制御(IMU)によるウィリー抑制だけでなく、「空気の力」という物理的なダウンフォースを用いて車体を制御するMotoGPのパラダイムシフトが、ついに公道市販車へと到達したのである。
この「勝つためのホモロゲーションモデル」は、ホンダのワークスチーム(Team HRC)復活と共に鈴鹿8耐へと投入され、2022年から2024年にかけて圧倒的な力で3連覇を達成。見事に「耐久のホンダ」の覇権を奪還してみせた。
しかしその一方で、主戦場たるSBKにおいては依然として苦戦が続いている。現代のSBKはMotoGPと同様に電子制御(ECUソフトウェアや価格上限)に極めて厳しい縛りがあり、市販ベースの電子制御を無制限に書き換えて車体姿勢を抑え込むことができないのだ。剛性が高すぎる車体と専用タイヤ、そして制限された電子制御という「深すぎる闇」の中で、ホンダは今も次なる最適解を模索し続けている。
| 時代を彩ったマシン | 特筆のメカニズムとスペック レース戦績 |
ベース公道モデル (フィードバック公道モデル) |
|---|---|---|
| (E) CBR1000RR-R レーサー | 水冷直列4気筒。RC213V譲りのボア81mm超ショートストローク設計と空力ウィングレット。最高出力218ps以上。 鈴鹿8耐 優勝(2022・2023・2024) |
CBR1000RR-R FIREBLADE (MotoGP空力技術の完全なる市販化) |
本項で触れたレーサー由来のレプリカ機に、HONDAのプレミアム機が凝縮されているといっても過言ではない。
その筆頭は「NR750」である。国内の業者間オークションにおいて初めて1,000万円台の大台で取引されたのが2020年のこと。2023年には74年式Ducati 750SSが1,500万円超えで記録を破ったが、2024年にNR750が1,590万円台の落札額を記録し、再び国内市販モデルとしての最高落札額を更新している。
また、TT-F1向けファクトリーマシン「RVF」を公道モデルに仕立てたホモロゲーション機「VFR750R(RC30)」も、2023年に1,000万円台を超える取引が成立している。ただし、300台超と生産数の少ないNRに比べ、約5,000台が生産されたRC30において歴史的な高値が付くのは極上の「未使用車」である点には注意が必要だ。平均落札額で見れば、タマ数が圧倒的に少ない後継機「RVF/RC45」の方が若干高く、500万円に迫る水準で取引されるに至っている。
そして忘れてはならないのが、新車価格2,190万円で発売された「RC213V-S」である。国内での目立ったオークション取引は確認されていないが、海外のプレミアムオークションでは20万ドル(2026年の為替相場で約3,000~4,000万円)という驚異の価格で落札されている。さらに、約10kgの軽量化とフルパワー化を果たす「専用スポーツキット」が未開封で付属している場合には、25万ドル(約4,000万円)を超える狂気の領域に達している。
小排気量クラスでは、GPプロトタイプ「NSR」由来の「NSR250R」の存在を抜きには語れない。2000年代からジワジワと相場を上げてきた2ストレプリカだが、NSRに至っては最終96年式の「SE」が2022年に500万円を超える落札額を記録し、絶対的な王者として君臨している。
ベースとなった公道モデルに目を向ければ、空冷4発の再ブームによって元祖空冷4発「CB750FOUR」は初期型K0が400万円を超える落札額を記録している他、弟分の「CB400FOUR」やその最終形態「CBX400F」は400cc市場におけるプレミアム機の筆頭格となっている。特に「CBX400F 2型(II型)」はその稀少性によって、2023年に700万円という驚愕の落札額を記録するに至った。
また、耐久レースで無敵艦隊と恐れられたRCBのレプリカである「CB1100R」も、プレミアム機として長らく君臨している。
これらの名機が持つ真の価値は、単なる年式や走行距離といった表面的なデータだけでは決して計れない。ホンダが心血を注いだレーシングヒストリーと、そこに宿るパラダイムシフトの歴史、そして狂気的なメカニズムの価値を適正に見抜くことでのみ、その本質的な評価額が導き出されるのである。売却をご検討の際は、名機たちの歩んだ歴史とメカニズムを深く理解するバイクパッションへ買取査定を託していただきたい。
買取上限
N/A 万円相場平均
N/A 万円買取上限
484 万円相場平均
365~423 万円買取上限
562 万円相場平均
390~460 万円買取上限
194 万円相場平均
165~179 万円買取上限
231 万円相場平均
76.8~131 万円買取上限
357 万円相場平均
109~198 万円買取上限
203 万円相場平均
73.3~121 万円買取上限
491 万円相場平均
160~262 万円買取上限
255 万円相場平均
215~230 万円買取上限
112 万円相場平均
72.2~90.2 万円買取上限
153 万円相場平均
81.8~109 万円買取上限
148 万円相場平均
40.3~75.4 万円買取上限
169 万円相場平均
90.3~120 万円買取上限
307 万円相場平均
184~234 万円買取上限
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149~175 万円買取上限
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